第06話   微禄の武士の釣り   平成16年06月07日  

新・釣りへの思いの第二話の「たそがれ清兵衛」の映画の庄内竿の所で少し触れたが、庄内の釣りで釣り三昧をしていた上級武士達と異なり、下級武士の釣りでは釣りも貴重な生活の為の一部となっていたと書いた。

事に晩秋に大量に釣れる篠野小鯛(黒鯛の幼魚)、クロコ(メジナの幼魚)の小物等は少しでも沢山吊り上げて家に持ち帰り、家族中でその日の中に火に焙り。乾燥させ冬の貴重な蛋白源とした。そしてその一部を買ってもらい生活費の一部としたことが文献に残っている。正月を迎えるための数少ない内職で容易に換金出来るひとつの手段であったのである。

しかしながら、これと同じような釣が江戸でも行われていた事が分かった。江戸が遊釣の為の釣が行われたのは、小普請組、寄合組の様な高給取りでありながら無役の者が暇をもてあまして始めた釣が流行したのがきっかけであった。旗本5000家、御家人に至っては1700家もあり、仕事にありつけるのはその中の約40%だったと云われている。同じ武士でありながら 御家人の微禄の武士たちは、広い屋敷ではなく映画に見るような町人たちと一緒の貧乏長屋の生活で内職をしなければ生活が出来ないと云う者が数多くいたようだ。

米本位制がうまく機能していた江戸初期には微禄の御家人たちも生活が出来ていたらしい。がしかし、程なくして江戸の町が周辺の村々からまた全国からの人口流入が始まり、百万人を超え、古今未曾有の一大消費都市として代わって来るとそうも行かなくなってきたらしい。消費都市になって、品物の流入が不足すればすぐに物価に跳ね返り、価格は、どんどん上がり始めると云う金融市場経済へと変化して来たからである。武士としての体面を保つための金が必要となって来るが、旗本と異なり御家人は現金の支給が多かったし、しかも支給される金は常に一定で仕事にありつかなければ上がることは決してなかった訳でインフレが進めば生活は困窮する一方である。

映画でお馴染みの浪人たちが貧乏長屋で傘張りをするシーンがあるが、恥を忍び表向きの武士の体面を保つ為にはなんでもしなければならなかったのが実情である。周り近所の手前表向きに内職をしていることを知られたくはなかった。しかしながら釣りは遊びであったから堂々と行けた訳である。その釣りで生活費の一部を稼いでいたという者がいたらしい。

昔、金曜の深夜11時に放送された大橋巨泉のイレブンPMで服部名人なる釣りの名人が登場した。彼は戦後の一時期釣りで生活費を稼いでいたという。戦時中は釣等出来なかった訳であるから、戦後の釣では面白いほど釣れてその魚を市場に持って行けるほどの収穫があり、生活費をそれで賄っていたと云う様な事を本で知った。

江戸の当時は釣り漁師と呼ばれていた者もいたであろうが、生活費の一部であっても釣りで稼いでいたという下級武士たちは今で云うセミプロであり兼業農家ならぬ兼業武士とでも云える。現在のサラリーマンが会社の帰りにパチンコで稼ぐと云った類のようなものではない。自然を相手にした生活をかけた釣り、そんな釣りを覗いて見たいような気がするが、余り余裕のないせこい釣であっただろう事は想像出来る。がしかし、腕の方もかなり達者な者でなければ出来ない事も想像出来る。